2015年4月10日金曜日

48文字のメッセージ


140文字以内のメッセージ=twitter はもはや日常普通のツールとなってしまった感がありますが、
私なんかは時々は覗き見るものの、ほとんどそこにつぶやきを入れたりすることはないのであります。
なんで?だって?
面倒くさいから。

さてそれはともかく、世の中には文字数を定めた文章がいくつも存在しますね。
俳句、短歌、五行歌。
そんなんじゃなくても、四百字原稿用紙一枚でとか、原稿用紙百枚以内でとか。
文字数が多いと面倒だけども、短すぎるっていうのもまた文章を書くのは難しい。
私なんざ、文字数を定められると意地になってその文字数ぴったりに書いてやろうとか思っちゃう。
まるでパズルに取り組むようにね。

ところがこればかりはちょっとできないなあと思うのが、48文字一回使用のメッセージ。
日本語には「あいうえお~わをん」まで、48文字が存在するわけですが、

”この48文字をそれぞれ一回だけ使って意味のある文章にしなさい”

こんな問題を出されたらもはや手も足も出せません。
ところがこれをやっているのが昔からあるいろは歌なんですね。

いろはにほへと ちりぬるを
わかよたれそ つねならむ
うゐのおくやま けふこえて
あさきゆめみし ゑひもせす
色はにほへど 散りぬるを
我が世たれぞ 常ならむ
有為の奥山  今日越えて
浅き夢見じ  酔ひもせず 
        (中学教科書)
あまりにも知りすぎていていまさら何とも思わなかったにしては、よく考えるとすごい文章じゃないですか。
色っぽくて、クールで、哲学で。
いったい誰がこんなすごい文章を作ったのでしょう。
一説には空海であるとも言われているけれど、それも確かではなく、wikipediaでは、
作者不明となっています。

思うんだけれども、日本語48文字を一文字ずつ使って歌をつくろうと考えたのがこれなのか、
あるいはこの歌に使われた48文字が日本語として残ったのか(昔は、48文字以外の発音も
あったと聞いている)。どちらにしてもこれは日本を代表する詩節でしょう。

48文字を一回ずつ使って他の文章をつくるなんてとてもできないさ、そう思っていたら、
かつてそんなコンテストがあったんだって。

明治36年(1903年)に万朝報という新聞に、新しいいろは歌(国音の歌)が募集された。
通常のいろはに、「ん」を含んだ48文字という条件で作成されたものである。
一等には、坂本百次郎の以下の歌が選ばれ、「とりな順」として、戦前には「いろは順」
とともに使用されていた。

とりなくこゑす ゆめさませ
みよあけわたる ひんかしを
そらいろはえて おきつへに
ほふねむれゐぬ もやのうち
鳥啼く声す 夢覚ませ
見よ明け渡る 東を
空色映えて 沖つ辺に
帆船群れゐぬ 靄の中







すごいもんですね。。。   ふみみ

コピーライティングで儲ける?

一行、ウン百万円!

かつてそんな噂もあった。
もう三十年以上も前の、コピーライターブームと言われていた時代に
今や大御所となっておられる巨匠コピーライターの一行に対する噂だった。
それがほんとうかデマかは、本人に確かめたことがないのでわからないけど、
少なくともひとつのプレゼンでそのような金額が支払われていたことは事実だ。
ひとつのプレゼンということになれば、コピー一行というわけにはいかないだろうが、
たとえば一本のコンセプトコピーと、それを展開させた表現コピーが数本、
さらにはデザイナーを巻き込んだ表現カンプと企画書、
そうした一連のプレゼン物で数百万、ということはあっただろう。
そんなケースで、突き詰めると最初に編み出された一本のコンセプトコピーに対して
一本ン百万円、と噂されたということは十分にあると思う。

巨匠たちのそうした都市伝説は当時たくさんあった。

ポケットから取り出したくしゃくしゃの紙に書かれたコピーでプレゼンしたとか、
用意された企画書を使わずに、まったく異なる企画を口頭でプレゼンしたとか、
いかにもありそうな話であり、そういうことは実際にあったようだ。

最近、ネット上でコピーライターを名乗って稼いでいる人物がいる。
K.T.という人は、K広告事務所というのを原宿あたりにかまえているそうで、ネット上やリアルでコピー教室を開催しているが、コンサル業務が中心のようだ。彼の名前をTCC(東京コピーライターズクラブ)などで見たことがない。

U.K.という人は、ネット上だけで露出していて、いわくダイレクトレスポンスのコピーライティングでン億円儲かる! 的なコピー講座を開いている。こちらの方も、業界内では聞いたことがない名前で、その作品もどこにも露出していないところを見ると、どうもネットだけのコピーライティングで稼いでいるようなのだが。

広告コピーで稼いでいる人は、ヒットした作品群を手がけて有名になって仕事を手にしている。
ところが、そうじゃないのに儲かっているというのは……よほどうまい商売ができているのか、あるいは?
地道に制作して稼いでいるクリエイターは結構いると思うけれども、コピーライティングでン億円稼いでいるなんて言われるとどうにも胡散臭いね。

まぁ、有名にも、億万長者にもなれない私が言うのもなんですけどね。
                         ふみみ


2015年4月7日火曜日

許してあげる。


聞く。
受け入れる。
許す。

博多は中州の老舗の有名マダムから聞いた言葉。
マダムは滅法じゃんけんに強い人で、一度も負けたことがないという。
そんなやつはおらんやろう、そう言ってチャレンジしたけれども、やはり勝てなかった。
そのマダムが、いろんな客とうまくやって来た秘訣のひとつとして、そんなことを教えてくれたのだ。
もう随分と昔の話だったので、聞く、受け入れる、許す、という三つの言葉だったか、もうひとつくらいあったか曖昧になってしまっているのだが、最後の許すだけは間違いなくそう言った。

つまり、世の中にはいろんな人がいて、その考え方も意見も生き方もみんな違う。
その違う考え方や意見を理解するのは相当に困難だ。
だとすれば、とにかく聞いてあげようじゃないか、それから否定することなく受け止めてやろうじゃないか、その上でそれがどんな内容であったとしても、許してあげようじゃないか、ということだ。
ほんとうなら理解するという行為であってもいいはずなんだけれども、マダムはそうは言わなかった。
やっぱり、違う考えを「理解」するのは難しいと彼女も知っていたのだろう。
人間が共に生きていくためには、お互いに「許し合う」ということをしないと、対立してしまう。
対立してしまったらもう一緒にはいられない。
実際、もう顔を合わせたくないような相手は、歳を重ねるごとにどんどん増えていくように思う。
そこで、もし、許すことができたなら、誰とでもいい関係を続けていけるのに。

外国で頻繁に起きているテロ事件も、結局許すことができない人々が武力にモノを言わせようとし、被害を受けた方もまたそのテロを許すことができないという悪循環になっている。
イエスもマホメッドも、相手を許す……愛を説いているに違いないのに。

あの中州もマダム、あの時点でもかなりの重鎮だった。ウン十年たった今でもご健在なのだろうか。
                           ふみみ

※博多は中洲の藤堂和子ママ、ご健在でした。
会員制クラブロイヤルボックス、航空スタンドバーリンドバーグのママで、ネット検索で出てきました。懐かしい〜!
http://www.tohdo-hakata.jp/profile

2015年4月6日月曜日

あなたのことを、わかりたいのに。

「先生、人間はお互いにわかりあえないんじゃあないですか?」
どうしてそんなことを聞いたのかはまるで覚えていない。
「そりゃあ、あたりまえだ。だから文学っていうモノがあるんじゃないか」
フランス文学の教授がそう言ったのだけは覚えている。
もう随分と昔、大学二年生の終り頃だったと思う。
フランス語の単位を落としかけていて、なんとか先生にお願いするために教授に接近したときの会話だった。

記憶にあるのはただこのことだけなんだけれども、そのときから私の中では
”人はわかりあえない。だから文学がある”
という概念だけがいつまでも残っているのだ。

最近になって、別のなにかから学んだのは、やはり人間は相手のことを決して理解できないという事実。
それは心理学もしくは脳科学的なアプローチによるものだったと思う。
いや、そんなことはない。私は友人のことを凄く理解してるよ。
そういう人もいるかもしれないが、個人の頭の中にあるもの、あるいは心にあるもの、
それはその個人だけがわかっているもので、いくら目と目を合わせようが、どれほどの言葉を重ねようが、決してそのすべてを相手に伝えることなんてできないのだ、そう書いてあった。
その通りだと納得した。特にデータ的な裏付けがなくとも、そうだと思ったのだ。
理解していると思っているのは、単なる幻想にしか過ぎない。
「ああ、わかってるよ、お前のことはすべて」
そう言ってのけるのは、そう思い込んでいるだけ。
本当は相手の考えていることの半分も……いや、十分の一も理解していないかもしれない。
まぁ、三割でも理解してもらったら”御の字”だろうと思う。
それほど人と人はわかりあえないのだとしたら、やっぱり理解するためにいくらでも言葉を重ねるしかない。
いくら言葉を重ねても、半分くらいしかわかってもらえないとしても。
同じ文章を読んでも、人それぞれに理解の仕方や理解した内容が違うというのは、まさしくいかにそのまま伝わらないかという証拠だと思う。
しかし、だから文学って面白いのだ。
絵を見て、あるいは音楽を聞いて、千差万別の感想があるように、言葉においてもそれぞれに違う解釈ができる、だからこそ芸術でありうるのだ。

なんか賢そうにエラソーに文学論っぽいことをかいてしまったけれど、
本当は私は何もわかっちゃあいません。
ただ、やっぱり人と人は決してわかりあえない、
若い頃に訊いてしまったそんな言葉が頭の中をぐるぐる回っているだけなんです。

2015年4月5日日曜日

たとえば、好きという気持ち。

誰かに「好き」という感情が芽生えたとして。
向こうはこちらの気持ちなんて知らない。
それどころか、こちらの存在すら知らないかもしれない。
電車の中で見かけるあの人、
同じ学校なのにクラスが離れている人、
部署が違う会社の先輩。
あなたはその人の姿を見かける度に心が揺さぶられる。
あるとき、偶然すれ違ったときに、なにか声をかけられたかもしれない。
あなたはドッキリしてどう反応していいのかわからない。
うつむいたままやり過ごしてしまった。
でも、あのhとは声をかけてくれた。ほんの朝の挨拶だったけれども。
私の存在を知ってくれているんだ。
いやいや、もしかしたら、私の思いが通じているのかも。

妄想はどんどん膨らんで、いつしかあなたはまるで相思相愛なのではないかと思いこんでしまう。
向こうがこっちを見てくれているような気さえしてしまう。
でも本当はそうじゃない。

もっと近しい相手だったとしよう。
会社の同僚。
学校のクラスメイト。
もしかしたら幼なじみ?

とにかく、相手のことを好きなんだ。
私が好きなのだから、それでいいじゃない。
同僚やクラスメイトならよく知りあってるし、いまはただの友達に過ぎないのかもしれない。
でも、私がこんなに好きなんだから、いつかきっと気持ちが通じるに決まってる。

既に恋人や夫婦だったとしよう。
かつては恋愛をして一緒にいるようになったとしよう。
でも長い付き合いの中で次第に空気のような存在になっていく。
空気のような存在が悪いわけではない。
それはきっと、お互いに遠慮のない、フランクな、居心地のいいカタチなんだ。
好きという感情はいまでもあるのだけれども、それ以上に日常生活というものに浸りきってしまっていて、もはや好きであろうがなんであろうが構わない状態。
お互いに好きだった同士なんだから、いまさら。

心の中で思っていることは、きっと相手にも通じている、わかってくれている。
そう思いたいのは人情だけれども、それは単なる妄想に過ぎない。

思っているだけじゃあだめなんだ。
実際に口に出さなきゃあ、伝わらない。

ことばって、そのためにあるんだよ。
                                    ふみみ

2015年4月4日土曜日

ことばはいらない……か?


ことばじゅくって、すでにあるんだろうなって思っていたら、やはりありました。
ネット検索してみたら、「ことば塾」と冠しているもにが少なくとも五つ。
金田一春彦先生のもの、大阪空堀にある教育的なもの、

武部宏って人がやっているビジネス対応のもの、カルチャーセンターのもの、演劇系のもの。
だけど、逆に言えばこれだけあるってことは、権利関係もなく、誰でも使っていい言葉だってことかな。

それはさておき、ことばのこと。

わたしも大昔のことだけど、心に思ってさえいれば、ことばはいらない、通じ合えると思っていた。
でも、それは間違いであったと今では思っている。
ことばがなくても気持ちが繋がっていると思うのは、幻想だ。
ことばなくして通じ合う、分かり合えるなんてことは絶対にありえない。

ただ、こういうことはあるかもしれない。

許し合うっていうこと。
相手のことがわからなくてもいい。相手の思いがどういうことであれ、何を考え何をしようが許す。
こんなことを指して「通じ合う」と言えるのかもしれない。

心理学者でも言語学者でもない私には、いま書いたことを科学的に証明することはできないけれども、これまで生きてきた経験則からそう思うのだ。

支持してくれるかどうかは、あなた次第なんだけれども。
              ふみみ

2015年4月3日金曜日

ことばじゅくはじめました

誰かにほほ笑みかけると、
誰かのほほ笑みが帰ってくる。
それだけでその人とわかりあえたような気がして。

こころとこころが通じ合うって、
こういうことなんだろうな……

と思ったら大間違い。

その誰かは、私の不気味な笑いを受け流すために
とりあえずほほ笑んでみただけかもしれないし、
とにかくほほ笑んでいれば襲われることはないだろう
という考えの持ち主かもしれない。

人間って、お互いに通じ合うってことは、
ほんとうはとても難しい高度なことだと思うんですよ。

ことばは、人間だけが持つすばらしい能力。

ことばがあるから社会生活も営めるんです。

このブログは、そんなことを考え考え、書いていきたいんです。