2017年8月17日木曜日

歌ことば。

言葉で紡ぐといえば、はずせないのは詩歌。
詩歌というのは、いわゆるポエムや歌、散文の他に、俳句や短歌、自由律、五行歌など、言葉で著すものすべてを指しています。
正直、詩歌作りについて私は専門的に学んだことはありません。
五行歌の会や俳人クラブ、詩歌勉強会などに、部分的に参加したことはあるのですが、
学問的には学んでいないので、ほぼ素人ですし、下手くそです。
でも、なんらか言葉を並べて作詞したり、俳句や五行歌を読んだりという体験はなんどもあるのです。

……それでいいんじゃないかな、とも思っています。

音楽だって、プロもいるけど、アマチュアもいる。
まずは自分が愉しむ。
もし、共感してもらえたら、その人にも喜びを伝えることができる。
音楽や言葉って、そういう一面もあると思うのです。

ということで、私も「言葉でいかせて」という個人的に詩歌を愉しむ趣味的なブログを持っています。
その内容は散文であったり、一行であったり、俳句、川柳、短歌、歌詞、と様々雑多
言葉でいかせて

最近は、もっぱら自由な短歌〜自由律でいいのでしょうか?を思いつくままに書いたりしています。

その中から自身でお気に入りの数篇を。。。

上賀茂に
古人の蝉時雨
きょう出逢いたき
まほろばの夢

浮浪雲
きょうまで来たる旅の空
いま立ち止まりて
枯山水眺む

内海の

たゆたう流れを
這い進む
ヨットの緩き向い風

いずれも、ブログ言葉でいかせてでは写真とともにアップしています。


ハードディスクに

溜まり続けるムービーを

ただ貯め続けて死んでいくのだ


一年ほど前には、こんな川柳みたいなのも。

さて、本当は、詩歌制作には様々なルールがある。
俳句なら五七五の十七文字で季語が必要とか、
短歌なら五七五七七の三十一文字とか、
五行歌は五行でとか。
なにより、間違った言葉はだめでしょうし、
誰かに読んでもらうためであれば、自分しかわからない言葉づかいは困るでしょうし。

とりわけ短歌や俳句となれば、著名な歌人がたくさんいらして、
その作品がお手本となるので、私のような素人歌はまったく相手にされないのだと思います。

とは言うものの、歌は誰でも歌えるわけですし、
同じように詩歌は誰でも好きな言葉を並べて作れるのです。
それに、言葉づかいにしたって、昨今はどんどん新しい言葉が生まれ、古い言葉は廃れ、
かつては間違いだとされていた言い回しが普通に使われるようなことも起きています。

要は、現代に生きる人の間で共有できさえすれば、
極論を言えば自分だけで愉しむのであれば、自分だけの言葉を使って、
詩歌を楽しんではいけない、ということはないと思うのです。

ただ、表現するという行為は、どこか他者にも見てもらいたい、
という承認欲求が含まれている者だとは思いますけれども。

想像力をたくましくしてみれば、万葉集などに残されているかつての短歌なども、
とりわけプロというわけでもなく、高貴な方々が、普通に恋文や記録手段として謳ったものですよね、きっと。

さて、今日はこのへんで・・・ここで一句。

佳きことも
悲しきことも
今は昔
想い遺せし 
歌ことばにて


ふみみ


2017年8月1日火曜日

思考する言葉。

人間は、言葉という道具を手に入れることによって、飛躍的な進化を遂げた、という。
言葉を使うことによって、他の人間と情報を共有できるだけでなく、生きていくために必要な情報を、次世代にも伝えることができる、それが飛躍的な進化をもたらしたそうだ。

それともうひとつ、言葉が可能にしたのが”考える”という行為だという。
言葉無くしては、人間は考えることができないのだそうだ。

ふむ? 本当にそうだろうか?

確かに。

私がものを考えている時、言葉であれこれと思考を巡らしているね。
言葉抜きでは考えられないのだろうか?
今見ている風景や、過去に見た映像、あるいは音楽、言葉以外の音、
そんなものを想起したり創造したりすることはできそうだ。
だが、それを思考というのだろうか?

考え、思い、想い、思想、想念、概念、思考、想像、信念、理念・・・・・・
およそ”思考”に当たるものは、やっぱり言葉でもって脳を働かしているようだ。

では、人間以外の動物は、考えないのだろうか?
うちで飼っている猫たちは、出窓のところや廊下の済み、椅子の上などに静かに鎮座して、眠っているとき以外はじっと何かに視線を向けて、あたかも哲学者のように見える。
あの姿は考えていないのだろうか?
言葉を持たない彼らではあるが、
腹が空いたら、そろそろ飯だなとか、
なんだか眠いが、ここで眠って安全だろうかだとか、
飼い主が帰宅する時刻が近づくと、そろそろ帰ってくるなとか、
言葉ではない何かを使って”考えて”いるのではないのだろうか。

そんな風に考えていくと、動物だってある種の”思考”を行なっているようには思うのだが。
人間の、言葉を用いた”思考”とはまったく違うものであろうことには納得ができる。

とにかく、画像や映像、音楽や環境音、世の中に存在するそのものを、
観念や概念に置き換えて、より役立つ情報として加工し、他者や後世に伝達する、
そうすることによって、より良い生存環境を手に入れたりキープできる。
それが言葉を手にした人類の生存戦略であるわけだ。

言葉で思考する。思考するために言葉がある。
間違った言葉は間違った思考をもたらし、
正しい言葉ですら、時には間違った思考に陥ってしまう。

一人の頭の中ですらそういうことなので、
言葉を使って他者に思惑を伝達することにおいては、何をや言わんやだ。

ふみみ

2017年7月31日月曜日

言葉のちから。

広告コピーの世界で三十余年の時間を費やしてきたのだが、
実は……正直に言うと、言葉のチカラをあまりにも信用して来なかった。
ついぞコピーライターとして鳴かず飛ばずでこの歳になってしまったのは、
そんな風に言葉のチカラを信じていなかったからかもしれない。

なぜそう考えるようになってしまったのか?

ひとつには、さまざまな物事に対して疑ってかかってしまうという、
私の性質もあったかもしれない。
所詮言葉なんて、などという煎じ詰めずに諦めてしまう癖があったせいかもしれない。

しかし、最もおおきな理由は、携わってきた仕事のレベルだったのだと思う。
レベルというのに語弊があるなら、仕事の種類と言うべきか。

広告会では、デザインに比べるとコピーライティングというのは後発な気がする。
最も、エレキテルを発明した平賀源内が日本のコピーライターの元祖だとするなら、
コピーの歴史は古いものではあるのだが。

歴史はともかく、かつての広告制作において、デザインが主役で、コピーはデザインするための素材の一つ的な感覚があった。
その証拠に、多くのグラフィック広告では、現在でも、
グレースペースと呼ばれるコピー領域はデザイン主体で決められ、
じゃ、ここのところは◯文字数でね、なんてことになる。
文字数を指定されると、我々コピーライターは、嬉々としてぴったり
その文字数で書き上げたりもする。パズルを解くみたいにね。
コピーが重要であれば、ここのところはデザインから割り出された文字数ではなく、
伝達すべき内容を伝えるのにどれほどの言葉が必要か、というところから決められるべきなのに。

さらに、コピーの読み手である消費者もしくは生活者は忙しい、という理由もある。
チラシやポスター、新聞や雑誌広告のコピーを、どれほどの人が読むのだろうか。
ヘッドコピーはたいていは級数がでかいし、目立たせているから目に入るだろう。
だが、それに続くボディコピーが問題だ。
どうせこんなコピー、誰も読まないから……なんどそんな言葉を聞き、
自身でも言ったことだろう。

しかし本当は、読む価値があるコピーは読まれるし、
逆に価値あるコピーを書くべきなのだ。
そして読者に読みたい!と思ってもらえる工夫が必要なのだ。

まぁ、主には上記のような理由で、私はコピーライターでありながら、
その主たる役割を放棄し続けていたのかもしれない。

さて今、コピーライターという職からいったん離れ、再度復活というか、
フリーランスで生きていこうとしているこの期に及んで、
ようやく言葉のチカラを信じるようになった。

その理由は、経験とか直感によるものではない。
科学によるものだ。

その科学とは心理学だが、曰く、人が他の生物と違っているのは、
言葉を持つ唯一の地上生物であること。また、言葉を持ったことで
人類は飛躍的な進化を成功させたという事実。
また、言葉が可能にしたのは、思考というもの。言葉がなければ、
人間は今でも他の動物と同じように森の中をうろついていたであろうということ。

どうやら、人間の真ん中にあるのが言葉というものなのだ。

「私」という言葉がなければ、私という概念は存在せず、となれば、
私という個人の意識も危うくなる。
「あなた」という言葉があるからあなたがいて、あなたが存在するから私も存在する。
少々哲学的な考えに聞こえるが、だいたいそんなところ。
詳しくは認知心理学に問うてください。

ま、とにかく、実は言葉のチカラは、想像以上に偉大なものである、
私はようやくそのことに気づいたのです。今頃になって。

ふみみ